一流の研究者の実態?勘違い?

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極論では,ある程度は,この記事に書かれている通りかもしれない…が,科学者のエゴを先鋭化させただけで実際を語っていない内容にもなっている.ここで書かれている一流は,一流ではない,と言いたいけど,実際はどうだろう.一流をはき違えると,こんな考え方になってしまうとは思います.

http://blogos.com/article/82685/

 

博士号は免許証,という点については,この記事のなかで言うF1で争っている大抵の人が認識していることでしょう.

コピペがどうでも良い,博士論文は適当でも良い,ということは,「どうでも良いと言うに十分な理由づけ」を自分で理解した上で,指摘されても正当性を主張できるほどに熟達しているなら良いのかもしれません.ただ実際は,特に何の気なしにコピペしていたりするので,何か正当性を主張できるほどの情報を持っているわけではないことが大半と思います.だから「コピペは悪」という流れであれば,その流れに押し流されてしまって反論できない.

 

遠藤の場合は「当然コピペはしない」という行動原理にあります.ここに良し悪しなどない.そもそもコピペしなければならない理由がないので,論文ではコピペはしません.そういう議論を研究者がする時点で終わっているのです.

あくまでも遠藤個人の研究者の価値観ですので,他の研究者が「いや違う」と言っても興味はありません.要するに「当然コピペは良い」と考えている研究者なら「コピペしない人」と議論する必要はありません.研究者としての素養を身につける過程で散々に議論されるものであり,研究者として自他ともに認識されているなら「いまさら何を言っているのか」ということになる.

ここは,学生や一般の通りすがりの方々に向けての発信となります.

 

というように,要するに「これは正当」と言えない程度に当人の基礎が備わっていないまま社会に出すなら「お墨付き」にならない,ということでもある.基礎というのは「できて当たり前」なので,できなければ誰も信じない,という明快な結論を導くだけです.

当然のごとく「できる人」は何らかの形で教育を受けているのは間違いなく,ならば「できない人」は教育を受けていないか,意図的かどちらか.いずれにせよ「当たり前だから教育しない」なんて議論は通じないし,自分が一流の研究者だから出来の悪い学生の書き物はどうでも良いというなら,そもそも関与すべきではない.つまり「学位論文審査はしません」と最初から言うべきなのです.しがらみでも何でも,引き受けた以上は,学位論文に目を通すほかない.すると審査した人間の責任が発生するので,中途半端すぎる審査では審査側に疑惑の目が向けられる,それだけ.

「一流研究者は学生教育に当たる時間がない」かどうかは,どうでも良いのです.単純に「仕事はやれよ」ということです.そして「仕事ができない」なら,それは一流ではない.そう考えると,リンク先の記事は「単なる一流研究者のイメージ」を自分なりに構築した結果でしかないと思われます.この記事の言う「一流」の安売りはいただけません.

自分のことしかできない研究者が一流なら,ポスドクでも一流の研究者になってしまう.ポスドクは研究者という段階ではありません.誰かからテーマが与えられる状態では,研究者として最低限の条件も満たしていない.すなわち,一流でも二流でもないと思われます.

 

今回も早稲田の学位審査について話題となっていますけど,つまり「大学が保証する」ということは,あまり良い話ではありませんが「基礎の身に付いていない博士を送り出したら大学,または指導教官の信頼性に影響する」ので,しっかり審査をしなければならない,ということになります.単なる利害があるという理由ですが,それでも,しっかり指導する行動原理にはなります.その過程でコピペがあった場合,そもそも「手間だから」という理由だけでコピペする正当性は特にないので,何らかの「科学的根拠に基づいたコピペ正当性の主張」で,コピペした学生が周囲を説き伏せられるなら,まだ救いがあるでしょう…学術論文なので,根拠があれば.

そもそも,仕事先の重要な案件にて信頼を損なうことが起きると,その組織が取引不能になり潰れて存続不能になることが問題になります,当然.そしてコピペは,何だか一部の人が「コピペはオーケー」と主張していますが,仮に問題ないことだとしても「一般社会の常識」として推奨されているわけではないのです.個人が一人で正当性を主張しても,社会通念上,その正当性が受け入れられないと「ネガティヴ」な要素として必ず作用します.間違っても「ポジティヴ」な要素にはならないのです.なら,コピペする意味はありません.信用問題に関わる可能性が高いため,好まれることはないでしょう.わざわざ火種を作ることに何の意味があるでしょう.もし爆発的に燃え上がれば相当に厄介です.

確かに実験項などが出典元からのコピペなどで済むとしても,わざわざ数分の手間を惜しんでコピペする気になれるか.普通ならなれません.そういう人材が単純に求められているだけです.仮に1つの組織のなかで正当性について納得してもらっても,その他の組織では受け入れられなければ無意味です.特例であっては困る訳です.

 

なかには,継ぎはぎしてコピペしたほうが,学生のレポートは充実した内容になる,という主張例もありますが,勘違いしては困ります.コピペ継ぎはぎで作り上げた内容は,その当人の実力にはなっていません.何故かというと「ならばコピペした内容を,一度,何も見ないで自分で書け」と言ったところで,書けないのです,どうせ.仮に書けたとしても,たとえば資料なしでの質疑応答には対応できない.質疑応答は,自分なりの解釈がなければ,大半はうまくいきません.

だからコピペにより何も身に付かないなら無駄,という結論です.それに,何も身に付かないなら,授業の場合はレポートとして課した効果がありませんので「コピペはやめろ自分自身のために」と言うのです.

たとえば,どこかの誰かが述べているように「教員はレポートなど細かく見ていない」から,どうでも良いのでしょうか.それはあくまでも「大学での成績」にしか反映されません.自力でレポートをコピペもなく仕上げることにより身に付いた素養,考える力は,大学での成績など無駄な世界,すなわち社会に出た後に役立つのです.そのためにレポートを書いてもらっているのに,教員は細かく見ていないから,というのは「評価基準がなければ何も考えられない人材を生み出せ」と言っているようなものです.そして,損をするのは,学生自身です.

 

大学生は,自分の能力を高めるために,進学したのではないのですか? それなのに,無駄な時間を費やすなら,それは自己責任です.少し譲ってコピペをしたレポートがスルーされたとします.優れていると判定されて良い成績につながるとします.その場は良いかもしれません.でも,大学を出たら,そのレポート課題に取り組んだ時間は完全に無駄になります.ほとんど何も記憶に残らないからです.記憶に残るほどの作業をするような学生なら,たぶんコピペはせずに,自分なりにうまくまとめます.その際にレポートに参照先を示すだけです.

そのため,たとえ低めの成績につながるとしても,自分の拙い考え方に基づいて頭を悩ませながらレポート作成したほうが,圧倒的に自分の将来につながります.

 

就職する際に「X大学のY研究室で学位をいただいた」ということ,そもそも教員の推薦書が必要になることがあり,教員側も自分の責任問題に発展しかねないので,研究室の卒業生の質については警戒しています.コピペ文化のない研究室から,コピペばかりする卒業生を生み出したくはありません.また,一度,妙な人物を出してしまうと,研究室の関連者全員に何らかの影響を及ぼします.本人が良ければそれで良し,なんてことにはなりません.

大学に至っては「X大出身者の研究能力は総合的に高い」という信頼性が買われていて,それがなければ優遇されることなどないのです.なぜ東大出身者が買われるかというと,別に彼らが本当に絶対的に突出しているからという理由ではなく,その信頼性に価値があるからです.

先人たちが築き上げてきた信頼性のもとに成立している自分の足場に対し,「一流なら自分を育てた足場など気にしない」とかいう議論は「本物」になってから言えということになる.おそらく,よほど傲慢な人物でない限り,一流,超一流の研究者は,そんなこと言いません.むしろ,その足場を,もっと洗練させたいと願うことでしょう.それも含めて一流と言われると個人的には思います.

 

結果論的に華々しい成果を上げれば確かに博士号は関係ありません.しかし,学生時の成果は,将来を保証するものではありません.学生の時点でトップ争いを展開しているといっても,それは基本的に「教員が運転しているマシンに便乗」しているという状態です.それでも,その成果は学生が自力で考案したので関係ない,というなら,博士号もいらないだろうから独立すれば良い話です.

実際に,学生のアイデアで革新的な成果になるということはあるのですけど,実験する環境自体は,大学,教員が用意しているのです.そんなものはどうでも良い,というならば,他の研究環境に移動するか,自力で研究所を作るしかないです.環境を自力で整えるのは,簡単ではありません.

 

博士号の実際は,どうなのでしょうね…少なくとも個人的には,通行手形みたいな形で使用しているので,いずれにせよ,博士号がないとどうしようもないのです.

 

遠藤自身が学生の頃に博士の学位記を受け取りにいったとき,半袖短パンサンダル姿の人も授与式にいました…正直なところ,この手の儀式的なことで実験時間が抑えられてしまい,実験するから,さっさと終わってくれないかとしか思っていませんでした.それほど歓喜していた人は周囲におらず,遠藤が何を考えていたかというと「博士号を得た後が勝負」ということでした.

そのため博士号を授与されたとき,特に感慨がわいたこともなく,とりあえず「儀式」が終わったなとは思いました.ここからが本番だと.

博士号は,その後,ポスドクになるとき,助教になるとき,准教授になるとき,それぞれ学位記のコピーを提出しています.使いどころは,今のところそこだけ.

 

なお,学位を獲得した際の指導教官の影響は強力です.指導教官が保証しなければ,研究機関に就職するのは難しい,というよりも,指導教官の名前を見て判断されることも少なくない.

もし資金があるなら自分で研究所でも立ち上げれば良いのですが,実験を必要とすると,箱物などを含めて億単位になることは間違いないでしょう.それが無理なら「正確な品質保証」を受けて環境を与えられる側に回らねばなりません.正確な品質保証は,相応の手腕を有する教員,大学によって与えられる.ならば,教員や大学には責任があるから無視はできないでしょう.

そして,一流,超一流などと言うなら,世界のサイエンスの先導者として機能を果たすべき.先導者ならば,後進の研究者を育て上げていかねばならない.ただ自分のことだけやってれいれば良い科学者が,一流なわけはないのです.

 

自分のことしかできない,それよりも,さらに他人の世話をすることもできる,そちらのほうが優れていると思いませんか?

最先端で争っているから,他人の世話は時間の無駄ですか.それは一流ではないでしょう.二流でもありません.これまでに見聞きした研究者の条件に照らし合わせる限り,三流にさえ相当しません.つまり,失格という意味でしょう.こんな定義を研究者の枠に入れてしまえという発想がおかしいのです.

 

そういえば,一応,書いておかねばならない…早稲田関係者ですので.遠藤が所属していた研究室では,普通に「研究者の基礎」を叩き込んでいるので,その倫理的な品質保証に問題はないでしょう.あくまでも「普通に卒業した人」という前提です.

 

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