博士量産工場

KC4D0125

日本の博士号修得要件について.

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140317-00010000-fsight-soci

 

このように記事にして公的なものとなると議論はしやすいですね.

日本は簡単に博士号をあげすぎ!…という結論ではあるのですが,かといって他国の博士と比較した質の優劣には疑問が残ります.国外に凄い人はいる,それは事実ですが,そんなこと言ったら日本にも凄い人はたくさんいます.その逆も同様に,妙な博士は,どこの国でも多い.

その良し悪しは完全に個人によって異なるので,たとえば「アメリカでは博士号を得るのが大変」だから「後に,研究者としてより優秀」ということにもならない.

 

そもそも博士は何かということです.

独力で研究室を運営する力がある,ということが,大学によっては書かれているかと思います.研究室運営は,学生のノリではうまくいかないかと思います.一見すると学生のノリであっても,裏では色々と手を回しているはずです.だから,学生時代に普通の学生として優秀だから研究室を運営する能力がある,とは言えません.

何よりも,独自性の立ち上げが難しい.

このブログでも何度か書いてきていますが,博士として研究室運営がうまくいくかは,学生時代の功績(論文,インパクトファクター,数,学振研究員への採否など)では判断できません.つまり,そもそも博士(研究者)の適格者とは曖昧な定義に過ぎません.仮に民間企業に就職する場合でも,どのような能力を発揮しうるかは,よくわかりませんので,一種の賭けです.大学では,最近,その賭けに対するリスクを考慮してか,任期3年といったことに出ている可能性も否定はできないでしょう.それを考慮しても酷い任期ですけど.

 

この際,博士かどうか,ということはおいておきます.

 

簡単な分類として,この世の中には2種類あります.

A: 「誰かが生み出した仕事を処理する能力に長けている」…たとえば,1を2にする人.

B: 「自主的な問題提起により仕事を生み出すことができる」…たとえば,0を1にする人.

 

極端な話で,この度合いの問題です.

ただ,過去の背景があるので正確には0ではない,といった議論は,この際,考慮しません.

 

研究者としてAではなく,つまりBの仕事をした者にのみ博士号を与える,と徹底すると…おそらく大変なことになります.

 

Aの度合いが強いほうが学生やポスドクとしては優秀,であることが多いのではないでしょうか.教員が要請した仕事を片付けるためです.研究者,つまり博士としてはBのほうが良いです.しかしBの力を持っている人は圧倒的に少ないだろう,ということは明白です.

たとえば,「1+1」の答えを書いておいてくれ,と言われて,日本の通常の成人で書けない人はいません.この作業が複雑化して,一般的な仕事となる.複雑化すると処理が大変ですが,それはもう処理能力の問題です.

 

生み出す苦しみは,与えられた仕事の実行とは異なります.そもそも「0 = 仕事がない」のです.自分で価値を与えて利益となる仕事に昇華させるまでが難しい.この場合,結果的に「1か0」となり,1にならないことが大半です.遠藤自身も大量の0の果てに,少しだけ1になったものがある,という状態です.

何をしても1にならず,精神を病む率は圧倒的に高いでしょう.一方で病む前に立ち止まり「諦めると0」では,かなりの空しさに苛まれます.よって,最初から「0から1」に取り組まない人が多い.そのため事後評価となるBの素養を持つ人,「0を1にした人」というのは相対的にかなり少ない,ということになります.

 

「1を2」にする場合は短期で済み,利益の有無も判断しやすいですが,「0を1」にする場合,基本的に利益になるかわからず,さらに1にならない可能性が高いことを考えると,民間企業では着手しづらいでしょう.たまに報道される「革新的な商品」は,そのリスクをどうにか打ち破った例で,一時期,独占することで莫大な利益にもつながるのかなとは思いますが…

 

両方とも備えている人が最強であることに違いはありません…民間企業なら,うまくバランスをとることで,同時進行可能と思いますけど,個人でなんでも手を伸ばすと,両方うまくいかない,というのは実際です.

どちらの性質に自分が当てはまるか,学生の時点では,はっきり断言できないでしょう.「自分はAのように,うまく仕事を処理できないから,Bに違いない!」とはならず,実際は「AもBも駄目」ということも少なくはないし,勘違いも多い.ただ,普通はAであってBは特殊だという前提にあれば,基本的に自分はAだと判断しておいたほうが最初は無難です.

結果論的に「0を1」にしたとき,自分にはBの素養があったのだなとわかります.この「0を1」にした実績があると,さらに「0を1」にする確率が大幅に向上はする,と感じます.そのため,創造性は一極集中しやすく,ほんの一部が大成するということになってしまう.格差社会の起点でしょう.ただ,これは仕方ない話で「0を1」にする「人生が立ち行かなくなるリスク」を冒して成果に結びつけた,その恩恵を否定するのは大人げない.

 

日本の大学では,まず卒業研究や修士課程研究において,教員が与えたテーマを処理するところから始まります.そのため,「1を2」にする素養Aが最も効率的に成果につなげることが可能です.

ところが,AではなくBの度合いがかなり強い学生は,与えられた仕事を処理する最初の時点で,つまずきやすいです.つまずくと博士課程に進もうという意思が消えます.自分は向いていない,と考えるためです.

 

仮に,日本の大学だけではなく基本的に,どの国でも同様の育て方をする限りは,日本に限って能力の低い博士を量産することにはなりません.そして話を聞く限り,他の国の学生が,日本の学生とは異なるという印象を,それほど抱いたことがありません.案外,似ていますし,一長一短です.

国外の学生が,講演会で質問に積極的なのかと思ったら,特にそうでもありませんでしたし.

遠藤も学生時代は,他国の学生は日本よりも積極性が高くて〜…と,色々な妄想をしていましたし,そのように言われて育てられてきました.ただ,実際は,よく言われる積極性と,研究者としての能力には,特に関係が見られないということはわかりました.

 

博士の称号を得るまでの道筋は全世界の共通問題なのです.

やたらと博士後期課程に学生を囲い込むことを義務づけする日本のシステムが,絶対的に問題だとは言いきれます.そんなことない,と考える教員は,地方大学の状況を知らないからでしょう.個人的にはインパクトファクター(IF)での評価も好きではないのですが,さすがにIFが0.5以下の雑誌に1報だけ間際に受理させて博士号を与えるのは,絶対にやめるべきでしょう.下手すると,オープンアクセス雑誌を勝手に作り上げて投稿実績にしたって,誰も気づかないのでは?と考えざるを得ません.

まずは「博士の数」で大学を評価しようという姿勢から日本は脱しなければなりません.大学に関係なく優秀な博士課程学生はいますが,数となると有名大学が突出してしまうに決まっています.

 

遠藤の学生時代は別に優秀なんてものではありませんでした.根性はありましたが.

ただ,誰も生み出していない戦略を何とかして作らないと,修士号も博士号も得られない可能性が…と,悩んでいました.理由は「1を2」にしてネタを作ったり見つけると,下の世代のテーマに流れていくという状況であったためです.努力するほど自分のネタが消える,こんな状況では生存を図るために新しいアイデアを出して「0を1」にするしかない,ということでした.

ただ,研究者として育てるという意味では「1を2」にするという作業は好まれていません.芽を出したら「0を1」にする仕事に戻るべき,ということであったのだと思います.この苦しみを博士課程の学生の頃に経験しておくことが重要です.社会に出てから経験不足による失敗を冒すとダメージが大きいのです.

そのため,自分の成長戦略として「1を2」にする過程で見つけたネタは周囲に渡す,ということを徹底すると良いのかもしれません.自分の首を絞めることは間違いありませんが,それを克服すると,けっこうな力が身に付いています.

 

ちなみに,民間企業で会社全体の利益に直接貢献しているのは2割〜くらいの社員だそうです.その他は利益につながるようなことは何もしていないか,むしろ損益につながっているということです.しかし大学の規模の小さい研究室では,そんな余裕はありません.ネタ供給する学生が2割で,後は提供されたネタの恩恵に与る学生という割合でしょうか.

研究室では,旧帝大などであればネタ提供マシンと化している学生がいるはずです.そのような学生は,研究者として手腕を発揮する可能性が高いのでは,と思います.そうではないという学生は,自らを,そういう立場に追い込んでみてはいかがでしょう.

無論のこと,なかなか(精神的に)しんどいです.覚悟して取り組んでください.

 

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