研究費と研究レベル

科研費の申請時期です.

書きましたが論文を投稿できていないので難しい気配は大いにあるのですが…

巷では「この先,日本発祥の研究でノーベル賞は取れなくなっていく」と言われて久しいです.

その理由の1つとして「研究費が減少する一方でコストは増えている」「雑用が増えている」と言われています.

これは正しいようにも見えて実際はそうでもないかもしれない.

(1)雑用は増えているのか

自分のなかで比較対象が明確にないので断言はできませんが,教員は教育に工夫を求められるようになりました.

おそらく30年前あたりだと「あと自分でやっといてください100ページ分」が通用したと思われるほど,大雑把であった可能性はあります.

たまにそういう話を聞くので.

現在ではそんなことは無理です.

何はともあれ学生からの評価などにあまりにも左右されすぎて,がんじがらめになっています.これは否定できないでしょう.

大学教員は,教育に関する教育を受けたわけではありません.そこまで前提として要求されると,いま以上に研究中心ということではなくなってしまう.

これが高校までの教員とは明確に異なる点です.

高校までの教員は,表立って研究を求められているわけではありません.大学教員の存在意義の半分以上が本来は「研究」に偏っているはずです.

そのため本来なら教育に関する高等テクニックなど持ち合わせておらず,大学側もそんなことまで要求していない時代があったはずです.

しかし遠藤が助教になった13年前くらいの時点で「助教なのになぜか教育歴を求められる」という不可解な事実に直面しました.

それまで博士課程の学生などに,教育に関する実践の場など皆無に等しかったというのに,なぜか教育歴が求められる.どういうことかと戸惑いました.

助教着任以降は,教育の機会を助教ながらに与えていただき,それがその後,かなり役立ったと思います.

かといって,教育に関してエキスパートになるなどということはありません.

「研究に関する能力」のために大学院時代からは人生を投じているのが実態です.

これは大卒や修士卒で民間企業に就職する方々から見ると「異様」でしかないと思います.

例えば博士課程の学生や助教は「1年後の自分」が全く見えないのです.

成果も出せず精神を病んでいるかもしれない.任期などがあればドロップアウトのリスク.常に気を張っている状態です.

遠藤はこの業界に13年ほどいますが,その間に「あの人が民間企業に」という驚きが何度もありました…それはまだ良い方ではあるのですが.

特に20〜30歳で人生が決まる傾向にあり,苛烈な競争がある…のですが,それを乗り越えて大学教員に定職を得た時に求められるものが「教育」「その他運営」なのです.

一昔前なら大学進学自体が「当たり前」ではなかったことも理由になるかもしれませんが,いま現在でも確実に言えることがあります.

それは「自分で勉強をするために大学進学した」ということです.この色合いは昔の方が明らかに強く,それゆえに「ここからここまで教科書やっておけば最低限の力は身に付くから各自やっといて」が本当は通用すべきであったりします.

「自分でやっといて」に不満を持つ時点で大学生としては本来おかしいのではないか?というのは個人的にも感じています.

「自分でやる」が当たり前なら,どんな大学でも構わないだろう,なんで難関大学に進学しなければならないのか,という意見が出そうですね.

ならばどの大学でも自分で勉強させれば自発的に極めて優秀になると考えるでしょうか.

大学進学は「ある難度の大学に進学する下地」を作り上げる時点で成功しているのです.

その下地がないのに大学以降の勉強をしても破綻します.

そして大学にやってきて「教えてください」「教えてもらわないとわかりません」という姿勢は,そのまま社会人や研究者としての姿勢に反映されます.

特に「教えてください」「教えてもらわないとわかりません」なんて研究者は,研究者ではないですね.

無論,学生であれば教員にわからないところを聞くことは可能です.

ただ肝心なのは「自分ではこう考えているけど,実際とは合致していない」という学生側の考えがあるべきということです.

世間では「高校生に毛が生えた程度」と思われているかもしれません.

いえとんでもない,大学生は既に「哲学」に踏み込んでいるのです.自分で考える力を持っている大学生は,もう教員と対等レベルだったりします.

そういった自分なりの考えを持つ学生は最近は稀有になってしまいました.

教えてもらうことに特化しすぎたあまり,その時点で競争原理が働かなくなってしまった.

つまり「自分なりの考えを持たない学生は淘汰される」が大学の当然だったはずです.

数少ない学生が将来的に研究者の道を選び,顕著な業績をあげることは十分にあり得ます.

しかし平均的に考えると,日本の研究業界の未来は暗い.これは否定できません.

研究者として既に潜在性を示す学生が乏しい = 優れた研究者候補の母数が少なすぎる,これに尽きます.

(2)研究費の減少が問題?

上記を一読していただければわかるかと思いますが,そもそも研究費が減少したかどうか以前の問題だと感じないでしょうか.

確かに遠藤は,なかなか論文も出せない状況になり研究費も得る環境には今ないのですが,だから研究のアイデアが出ないという意味ではない.

大変申し訳ないのですが,論文が出せなくなる時期が到来すると思い,東京理科大学を狙った,というところがあります.

環境を維持する程度ですが研究費は学内予算で賄えるので.更新は難しい…

研究費がないからアイデアが出ない.これは関係ないですね?

教えてもらうことに特化している学生だった人が博士号を強引にとる.

なぜ博士号を取れるかというと,ほぼ研究室の力です.その学生に資質がなかろうが学位は取れます.

そんな博士が多く放出され,中には大学教員になる人が出てきます.

なぜそんな資質にすぎない博士が大学教員になれるかというと,これまた研究室の力です…本人は「研究室のコンセプトをやらされているだけ」の助教でも,共著として,果ては1st authorとしてIFの高い学術雑誌に論文を投稿できます.

その業績を持って准教授などになる.

遠藤自身,これまで「こんなひどいレベルで博士とれるの」という学生を多く見てきました…本当に驚くべき博士が野に放たれています.

問題は研究費なのか?というところに加えて「大学が完全にサービス業と化しているのでは」という現実がある.

本当に求められているものは「排除機関」なのです.

「あなたは自分で考える力がないので,この先は無理です」と引導を渡してやるべきだったのに,強引に修士卒業までは与えてしまう.

見た目は当然,それなりの力を持っているように見える修士が出来上がります.

しかし実態は「教員が装飾して見せかけている」ことが少なくない.

そうせざるを得ないのが現在の大学です.

一昔前は「勝手に実験して勝手に成果を出す学生」以外は修士で淘汰されていた.その結果,極めて優れた研究者候補の母数が大きかったのです.

今はどうでしょう.

(3)なぜ大学は変わったか

これはもはや研究費と無関係に見えます.

しかし,ここからまたひっくり返る.

大学が助成金(研究費)を得るために,上述のような学生育成サービス業機関になってしまった,という可能性があります.

これは止むを得ない側面があります.大学は無銭ボランティアではないからです.

なぜ学生育成サービス業になっていったかというと,これは公然と問題になっていますが,国の方針に従った結果かもしれません.

大学にかける分配金を減らし,従わなければ助成金が出ないシステムにしてしまえば,大学は何も言えなくなるでしょう.

そもそも国はなぜ大学を平伏させることになったのか.

これは大学と学生に関わる歴史的な背景がありそうですが,ここで言及するほど詳しくはない.

一昔前の大学は「学生の自然淘汰」に耐えうる力を持っていました.結果,学生が切磋琢磨して自発的に伸びていった.

今は「全学生の能力を伸ばすために,ついていけない学生を取りこぼさず救済するために,事務も教員も総動員」という状況です.

ある意味で「学生の不満」を潰すためとも言えなくもない.権力への攻撃は,何も優秀な学生だけが発端となったわけではないと思えるので.

自力で伸びない学生は淘汰され,淘汰された学生を見て怯えながら必死に力をつける,そんな環境ではなくなりました.

つまり「日本の基礎研究は個人レベルでは無視して良いけど,大局的にはレベルが落ちる」と言えるか,もしくは「外国人が増える」でしょう.

アメリカがもてはやされますけど,全世界から人が集まる結果です.

つまりアメリカ人そのものが優れているからと言うより,世界中から優秀な人材が集まる環境がアメリカを支えているのです.

(4)研究費を集中するべきかどうか

これは遠藤の僻みではないのですが,集中すべきではなく均一にするべきではないかという意見です.

昔の日本は研究費が行き渡っていたとか.

その時点では何のためにやっているのかわからないような研究にも研究費がおりてきて,その結果,大きく開花したと言います.

よく考えると基礎研究というのは「何なのかわからない」から研究していたのです.

「利益になるから研究する」という基礎研究では根底から意義が覆されてしまいますね.

純粋学問なのです基礎研究は.

それがいつの間にか「金のなる木」「金がならない木」で分類されている.

この時点で「異常」です.

またこれはオマケですが.

日本で実施されている「超大型予算の研究」の大半は失敗ではないかという意見があります.

当然,公の評価とは異なるかと思いますが,あまりにも偏りすぎた結果,最低限の研究費さえ得られず潰れてしまうケースが多々ある.

それこそ,かつて「何の役に立つのか」と思われていた研究から大きく伸びたものが,現代では潰されている可能性も高い.

10億の研究1件より500万円の研究200件.

本当に「国策状態」になっているものには惜しみなく注ぎ込めば良いとも思いますけど,そう言うレベルでもないのに何億もかけるのは果たして?

ベンチャー企業でもないのですよ…生命系で見かけますが,そんなに潜在性があるというなら株式市場に上場しては?ということに.

超大型予算を要求するなら責任も伴う.なら株式市場に上場して結果を「利益」で出す.

これで良い気もしますけどね…

その上場に当たっての環境整備や条件については補助するということで.

(5)日本はかなり危険な岐路に立っている

・大学は淘汰機関に逆戻りする

・研究費はコスト単価を決めて領域ごとに支給して満遍なく行き渡らせる

・そんなに潜在性あるなら株式市場に上場

考える力を身につけていない学生が排除される.何が悪いのでしょうか?

卒業を狭き門にしてしまって良い.卒業により得られるメリットは引き出せるでしょう.大卒でも難しいなら,民間企業は優遇するわけで.

結果,力のある人間の母数は増えます.

「総中流社会」ではないですが,これはもはや資本主義ではないのです.

大学生の競争力を削いだのだから,その先でも競争力が低いことなんて明白ですよね?

結論としては「大学への助成金減少と条件付き支給は大学生の質を削ぎ,全ての悪循環につながっている可能性あり」ということですか.

だから何かできるかと言われても,遠藤には何もできないのであった.