研究者の産み方

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やっとゲラを処理した.結局,次の論文は6月中に投稿,まで押してしまった.

 

研究者の自然発生を待っているとしか思えない教育システム.少なくとも日本は.

 

けっこう前に読んだ記事ですが,中堅大学の学生は,これを読んでみると良いでしょう…ただ,だからといって,勝負になるかどうかは個人次第です.

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html

 

これは凡人の嫉妬心かもしれませんが,メディアに取り上げられていた「天才」は,どこに消えたのか,遠藤自身も非常に気になっていました.以前,大人になった神童についてテレビで放映されていた気もしますが…

自分は研究のアイデアに苦心する一方,果たして,メディアで取り上げられた天才は,どのように研究に取り組むのであろう,と.

個人的には「研究戦略がお膳立てされていないこと」が重要と考え取り組んでいるが,これがやたらと難しい.さすがに「無から有を生み出す」などと大げさなことは言えません.いずれにせよ,過去にない意義ある発想を簡単にやってのけてしまうのが天才か,という勝手な印象があるわけです.

 

しかし「みんなただの人になった」という結論だと,なんとも寂しいものです.

 

たとえば,東大生の大半は,高校の頃,かなり良い成績を修めていたことでしょう.しかし,大学に進学してみると,遠藤の場合(東工大),そのスタイルの変化に対処しきれずに悩んでました.進行速度が半端ではなかったというか,たいした説明もないまま次に進んでしまうため,置き去りにされやすいのです.ここで,高校の頃に成績が良かったからと言って,そのまま大学でも良い成績を修めるかは定かではなくなります.

そして現在,遠藤は金沢大学という中堅所の大学にて授業をしたりしますが,東工大での講義内容と難易度に違いがあるようには思えません.

基本となる教科書は,どの大学においても,それほど違いはないのです.そして,その内容を網羅して勉強しなければならない以上,大学によって大きく異なる講義内容になることはありません.一方で,応用力には差が出ていると感じます.

 

実際に研究に携わるようになった「天才」は,多くはないのか?と思います.一般的には,それなりの高所得者になるかと思われるのですが,それが天才の成せる業には見えない.

確かに驚異的な人間はいるもので,天才から優秀な研究者へと成長したケースもあるようです.

 

子供の頃の天才とは,いわゆる「凄まじい記憶力」「計算速度」といったあたりで,確かに遠藤など遠く及ぶわけもない高みにある.遠藤は,そのあたりの小学生にも適わないのではないかと.しかし不思議なことに,どれだけ知識を詰め込んでも,新しいアイデアにはならない.どれだけ計算速度が早くても,研究スピードが早いわけではない.

つまり,子供の頃の天才とは「目に見える形で瞬時に(長くても数時間で)答えを出す」.一方の研究者は「未知の目標に対して長期的に(数ヶ月から数年で)到達する」ということでしょう.

ということは,中堅大学出身者で,短時間で解答を出す作業が苦手であっても,長時間をかけて成果を上げる研究に適している人はいる.しかし,やはり教育システムの問題で,大学進学の時点で「自分は向いていない」という印象を与えかねない環境になっています.

 

結局,妄想の力は偉大だということですね.既存の法に照らし合わせる仕事に長けた人材を生み出す教育システムは,研究者の誕生については個人の好奇心に依存しているに過ぎません.

遠藤が研究に対する妄想を具体的に抱き始めたのは,高校1年の頃です.それは物理であったり,生物であったり,特に分野を問わないものでした.

そういう話をする相手は,少しだけ友人にいた気はします.熱い議論になるようなことはありませんでしたが.

 

いずれにせよ,研究というのは,学生の間では理解し難い感覚だと思います.だから,卒業後ですね,研究者として力を発揮できるか明らかになるのは.

それまでに基礎を身につけて,競合者にとって嫌な存在を目指しましょう.

卒業後に研究者としての道を歩もうという覚悟は,通常なら持てないものです.学生の身で自分が研究に適しているという証拠が,ほとんど得られない.だから,非常識的な判断を求められ,その非常識さを周囲は受け入れ難かったりする.そうして「妙な博士は扱いにくい」となるのだろうなぁ.

 

そう,一方で,遠藤にはサッパリ理解不能な中学受験あたりについても,指摘がありましたね…

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

 

遠藤は,中学受験とか,高校受験において,他人を気にしている余裕などなかったから,親同士の戦いなど知ることもなく,そしておそらく遠藤の両親は,他の家との戦いに突入することはなかった.色々と言われてはいただろうけど,その余波が遠藤に降り注ぐことはなかったわけです.

結局,常に言われていたのは「よそはよそ,うちはうち」だから,他人と比較してどうこうしようなんて教育をされた記憶はありません. 遠くの誰かの親から「うちの子供は○○中学で〜」とかいう発言が聞こえてきたが,それで何を言いたいのかが理解できなかった,というあたりは暢気なものだったのかもしれません.

身近なところでは「東京工業大学に合格したの?…それ,どこの専門学校?」などという会話があったとかなかったとか.

 

後に,遠藤が大学生になり,中学受験という混沌とした戦いがあることを明確に認識するに至り,気味が悪く感じたものです.小学生が凄まじい勢いで問題を解いている様子を見て「自分には無理だな」という感覚しか抱けず,過去にそんな小学生であった人が自分の隣にいても何か特別に違いが感じられない.

すなわち大学になると,天才児は既に「普通の大学生」になっていたということでしょうか…とすると,いったい小学生から高校にかけての教育は塾通いも含めて何だったのだろうかと思わされるわけです.

 

意味がないとは言いません.結局,問題解決能力を身につけているのだと考えれば,あの猛烈な受験戦争も悪くはない…のかなぁ?

いやーさっぱりわかりません,やはり.

そういえば,早稲田の高校からの内部進学者は…あまり世間の夢を砕くようなことはして欲しくないものです.彼らも,中学,高校といった頃は,相当な逸材であったはず.

中学受験戦争により驚異的な才能の持ち主が育成されても,大学生になったら何の変哲もない凡人にも適わない人材になる,そういうことは多々あります.なぜか理由はわからないのですが.

これが匿名ブログであれば「受験テクニックは一切いらない」という実例を示すこともできますが,名前が出てしまっているので,適当に濁して終わるとします.

 

遠藤は「勉強はそんなにできない」範疇に含まれており,ただ苦悩しているだけ.あまり苦悩はしたくないものです.

 

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