研究リーダーの実験数と一貫性

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論文審査終了.一度,あまり専門にしていないものを引き受けたら,似たような論文が次々に送られてくるような.専門にしていない人間からの余計なコメントを求めているのかもしれない.でも,他にもいるだろうに,この領域の人たちが…

 

そういえば,実験ノートが3年で2冊の件…STAP関連の話では,研究の実態について知らないまま批判しているケースも散見されます.特に擁護するわけではありませんが,研究の一般論を概説.

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1404/01/news089.html

 

遠藤は学生の頃とは違い,ここ3年で実験ノート2冊程度です…ここ突っ込みどころなのかと,少し驚いています.大量に実験をしたいなら,ポスドクになるしかない.リーダー的な存在になると,実験に投じる時間が激減します.

テーマを考える等の時間や,取り組んだことがあまりない実験を開始するため,助教に上がった段階で既に実験数は激減し,7年で5冊以下(1冊200ページ越えるくらい).

仮に1日に1実験で,年間300日,働いたとしても,300実験です.正直に1実験1ページならノート1.5冊分…となると,3年で5冊くらい.たいした冊数ではないことは明白です.

なお1実験1ページではありません.10実験程度を1ページに書き込むこともあります.もし書き込みが物凄いなら1冊で2000実験ということもありえますが,これだけの実験数は学生が3年かけても楽に処理できる量ではない.そのため,大量に実験をしてもノート冊数は案外,たいしたことがないのです.

 

さらに,当然ですが助教になると実験内容は「断片的」です.1つの研究テーマに絞り込んでいる方は珍しいでしょう.種類は多いし,他の実験者(学生)の再現をとってみたり,サポートしてみたりしているため,それぞれを見たところで,何もつながっていない.

理研と大学では環境が違い,実験内容も異なりますが,実験実働部隊への指示出しなどを考慮すると,それほど本人が実験可能とも思えませんね…

 

グループ全員で2冊,という解釈ではないだろう,さすがに.個人個人が1冊はノートを持っているはずなので.

 

こういう細々した問題はどうでも良いのです.

理研も素人ではないのだから,実験ノート2冊しかなくて情報が断片的だから〜とか,そんな解釈はしないはずです.ただ,何も知らない方々が聞けば「なにそれおかしい」と言いだしかねない.おそらく,何をもってしても「なにかおかしい」という雰囲気なのです.

遠藤のノートも,かなり内容が飛んでいるから,何をやってるのか,他人が見ると,サッパリわかりません.要点しか検討しないし,事実しか書かないし「何を狙っているか」なんてあまり書きません.目的や戦略などを書いてしまうと,悪意がある人間は何をするかわかりません.正確な情報や観察結果が書き残されているか,これは重要.

 

理研は「正確に調査する」という点はとにかく,1人の研究者を追い込むために「研究の常識的に考えると無駄な議論」を持ち出して,ばらまく意味はない.

それこそ「2冊しかない」「断片的」という情報は,そのノートを見た人間の「主観」でしなかなく,そんなことを公の場で言う必要はないはずですね.つまり,このコメントは「個人的意見なので言及すべきではない」という内容です.

薄々,研究の実態と理研の対応には微妙な解離があるのではと感じている一般の方々もいるかと思いますが,別に擁護しろということではないのです,ただ単に,権威を持つ機関が個人を攻撃するために一般社会が敏感に反応するであろう情報を不用意に流すことは,横暴に映りかねないということを,理研が考えて振る舞っているかどうかが問題です.現状では個人の主張よりも,大きな組織の一言ほうが,正しいように見えるものです.

そのため,理研の調査に対する反発は,単に理研の対応に向けられている.今回の件について,個人の行動に対する擁護に回っているわけではありません.ある責任を請け負うべき理研が「自分たちは何も悪くはない」というための情報を公開しているとしか見えなくなってしまいます.こういうことをされると,信頼関係が崩れます.

 

これはどうなるでしょう…

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140406-00050132-yom-sci

 

幸いなことに遠藤の周辺では問題行動になりうることはない,と思えるのですが,無関係なところでは誰かが何かしていても不思議ではありません.早稲田だけではなく,他の大学でも.

S研の博士は,何も問題ないはず.

D論の基本は既に発表した論文に基づいていても,論文0報でも博士が獲得可能な大学もあるしなぁ…何でも良いから1報でOKというのも問題ですけど.

 

博士といっても,その実力は多様です.しかも,博士とは呼びたくないような人は,かなりいるかもしれない. 企業が好む人材は,実際は,博士の定義とは違う気もしますし.

「実験一生懸命やりました」なんてのは博士ではないし「自分のテクニックなど優れているのでポスドクとして貢献可能」とかいう内容のメールも困る.ただ,それがまかり通るくらいに,当たり外れがあるのかもしれませんね.

 

博士なんて,実験できて当たり前,一生懸命やるのも当たり前.結果を出すのも当たり前.それは誰のための努力か?…自分のためです.

このあたりを勘違いしている人は多い. 博士とは基本は求道者です.自分のために,自分の力で,自分の目標へと至り,その一部が社会貢献につながり利益になる.研究室であれば,学生教育により人材を作り上げる過程に貢献している.

社会のために貢献できる人間になりたい,もしくは貢献できる人材が欲しい,これが第一ならば,それはもう博士である意味はありません.つまり,免許証としての博士と,本当の定義は異なることは認識しなければ.免許証博士は,古くから定義されるタイプの博士には駆逐されてしまいます.

博士は新しい発想を生み出すことが最低条件として求められますが,この時点で,他者と隔絶されているのです.新しい発想なんて,最初は営利には向いていないのです.ただ,誰も考えていないような発想だから,利益につながるかもしれない.

 

という,古風な博士はアカデミックには比較的,多く残っているかと思います…が,それでも割合は少ないでしょう.民間企業に進んだ人の多くは「利益」の話が中心になっています.利益がなければ成立しない世の中ですので,それはそれで良いでしょう.すると,特に古風な博士である必要はないので,免許証を適当に発行するケースがあってもおかしくはない.結果的に,上述の「調査」が,特定大学に限定されず全博士に適用される場合,問題が指摘される可能性は高いでしょう.

いずれにせよ,状況改善への一石にはなりそうです.

 

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