正論と感情論

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正論は通りづらい.

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20140122-00010000-biz_sbcr-nb&ref=rank

 

結局のところ感情の寄与は研究においても無駄に大きいものです.「正論」は,そのままの通り,だいたいの人間は,なんとなく理解している.理解しているけど,その通りに行動できない状況などあり,当人が苛立っていることも多い.すると,他人から正論を言われると「こちらの状況を理解していないのだから余計なことを言うな」となり,険悪な雰囲気になることもあるでしょう.

この手の正論とは,地方大学ほど通りづらい.一方で,有名どころほど,正論や正攻法が要求され,その上で迂回路などの工夫が自らを救うことにもなるように思います.

 

正攻法に出足が鈍るなら,迂回路が何かも理解し難いでしょう.だから,最初は正攻法で突破を試みる必要はあります.

要するに『努力』『根性』『気合い』の世界です.これは研究でも同じことです.

ちなみに,ほとんど,うまくいきません!…これまでの研究で正攻法でうまくいった試しは,ほぼありません.ただ,よく考えてみると,それは正攻法ではない,と,教科書や,教科書を妄信する人たちが定義づけているだけに過ぎなかったりします.

 

特に反発を受ける正攻法には何かのチャンスが潜んでいます.迂回しているつもりが,過去の見解が否定した正攻法に取り組んで成功した,なんてこともあります.なぜかというと,それが研究という特殊なアプローチであるからでしょう.

 

遠藤自身も「何が目的かわからない」「何をしているのかわからない」「うまくいくわけない」と,けっこう言われてきましたし,今も一部はそんなところでしょう.むしろ,そう言われなくなったとしたら,個人的には気持ちが悪くて仕方がない.誰からも認めらる研究ならば,もう「常識」なので自ら取り組もうとは思わないでしょう.周囲から「理解不能」と言われることは,研究者にとっては,むしろ賛辞なのでは?

ただ,よく考えてみると,そういったアプローチは正攻法の部類にあるにも関わらず,過去に既に研究が重ねられることで否定的見解が渦巻いている,という「勉強したらわかること」での反発ということが多い.教科書を越えたところで何が起きるかなんて誰にもわかりません.

しかし,教科書や先端研究の場から得られている知見をも背景として「独自の革新的な」研究を立ち上げなければ,説得力がないと言われます.思いっきり矛盾していると思いませんか?

むしろ「おまえは何も勉強していない」と言われた方が,スッキリしますね.そうです,だから,しがらみのない発想に取り組めるのです.

 

ご存知の通り,研究というのは「教科書的」であってはならないのです.過去の見解 = 教科書です.過去の見解が否定的なものであっても,数年前の眼鏡を通して物事を見たときと,数年間の蓄積を通して物事を見たときでは,まったく異なる見解に至る可能性はあります.

迂回しているつもりだったけど実は正攻法ではないか?と見直してみると,少しだけ自分の精神が安らぎます.遠藤の場合は,ほぼ毎日,こんなバカなことが本気で通るのだろうか,と感じて,憂鬱になっています.ただ,あと数年すれば,そこから抜け出しているかも…しれない.抜け出したら,次の「バカなこと」に取り組もうと考えています.抜け出せなければ,しばらくは取り組む必要がありそうです.だいたい10年くらい先だと覚悟していますので.

そんなバカなことは通じない,と言われたら,もしかしたら,その独自性の本質を意味しているかもしれません.本気で取り組むか,意気消沈するか.前者のほうが研究としては正論なのです,おそらくは.だから「正論が通らない」わけです.

 

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