「研究」と「研究という仕事」の違い

大学とは何なのでしょうか.

もし「教育機関」と言うのであれば,研究室に,一律に学生を受け入れるなどの措置は必要になる.

ただ問題点は「必ずしも学生が研究室に配属し,なおかつ卒業後に研究室に配属された経験を活かす仕事につくのか」を考えると,
需要と供給の乖離が出てきます.
たとえば学部4年は「基礎教育」でしかなく,研究などできるほどの力は実際ない学生が大半です.

この点では「なら卒業研究とはなんだろうか?」という話にもなる.

実際,卒業研究という形で研究室に配属され,実験をして,そのまま卒業して就職する場合,
卒業研究を経験したことは,学生にとって十分に意味はあっても,研究者にはつながらない.
なぜかって,学士で研究者になれることは,ほぼないので.

ということは,卒業研究自体は,少なくとも社会で学士として貢献する上での「必須講義」には該当しないと考えられます.
つまり「修士課程以降に進む学生にとって卒業研究は導入部として良い」という話になります.

こうなると,卒業研究は,大学院に進学する上では有用かもしれない…と思うかもしれませんが,どうでしょう.

卒業研究をしていない場合でも,化学系の大学院への進学は可能です.
だから卒業研究は「練習」ということです.

一方で,大学院は何なのでしょうか.
ほぼ完全に「研究のため」と考えて良いはずです.
ある意味で「研究者養成機関」なので,研究者を生み出す上で教育をするということになる.

ただ,現実と少し乖離があるなと感じるのは,学生の多くは就職するために必要だからという理由で研究室に配属される.
ということは,だいたいは,修士課程卒業後は就職して,就職先で研究関連の仕事をしたいと考えている.

「研究をしたい」ではないです.

ここ勘違いしている学生が多いのではないでしょうか.

「研究という仕事をしたい」なのです.

あくまでも「仕事をもってくるのは他人」という発想になる.

こうなると,遠藤自身がモヤモヤと抱える問題点が浮き彫りになるわけです.

遠藤自身が学部生であった頃は「自分が究めたいもの」と「社会の仕事」の違いに悩んでいました.
あまり勉学意欲もわかず,かといって就職する気も起きない.
「自分が究めたいもの」があるからです.

修士課程に進学して自分が適合した点は,そこそこの割合の研究室の学生が「自分の究めたいもの」について,
積極的に発信していた,というところかと思われます.

「自分が究めたいもの」に向かって真剣に考えている学生が多いというのは,遠藤にとっては「価値」があっていたわけです.
東工大で卒業研究で入った研究室は,少し雰囲気が違いましたので…
何か違うなという違和感はありました.

「研究という仕事をしたい」という意識だと「何をすれば良いか教えてください」「うまくいかないのは自分のせいではない」にしかならないのですよね.

これは盲点というか,忘れていた感覚です.

以上より,次のことが導き出される.

「研究という仕事」がしたい学生は,旧帝大等の大学院に移動しても,馴染みづらい.
結局,それが何かがわからないままに修士を出る.

何らかの糧にはなるかとは思います.

ただ,人生に大きな影響を及ぼすと考えているなら,少し考えたほうが良いでしょう.

あるありふれた化合物があります.
その化合物は,ある病の万能薬でした.
でも,誰も気づかないので,日の目を見ることがない.
気づくための条件があるのです.

このように,その価値は,人によって変わる.
しかも,その価値に気づかないことが多い.

研究室とは,そういうところです.
単に有名だから,単に旧帝大だから,単に論文が出そうだから,という発想で価値を見ようとするなら,自分を大きく伸ばす本質的な価値は得られないでしょう.

厳しい研究室なら自分は伸びる,成果が出ている研究室だから自分も後に続ける,という発想では,的外れになりかねません.
ある程度の基本が備わっている研究室であれば,どこでも,研究者として伸びる人は伸びるのです.

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