OB


たまたま出身校についてネットで見かけて,そのOBのコメントが大量に出ていたのですが…

こういうものなのですかね…帰属意識が高いのか,それとも一般的に絶賛する必要性があるというのか,この世の中の度し難さを垣間みた気もします.

遠藤自身は,実は「全体」で覚えていることは基本的にないため,どの程度の思い入れがあるかも,出身校については,よくわからないのです.
基本的に,良い記憶のほうが少なく,それがむしろ自分自身に発破をかける起点となっていった,と見ています.

詳細を言うときりないですが,ちょうど遠藤が小中高と進む過程は,教師の問題行動や発言に,ほぼ圧力がかかっていない最後の間際(聖域?)であったのではないかと思われます.
そのため,小中高と,今の後時世では想像できないような散々な目に遭遇している.

遠藤自身は,ぱっとしない,うだつの上がらない学生であったと自負しているのですが,そのあたりは教師の目から見ても同様であったのかなとは思います.
発言内容や行動が,なかなか酷い.自業自得とも言えるかもしれませんが.

ただ,そういう今では社会問題化しかねない言動に,遠藤は押し上げられてきたとも言えます…
そのため,XX学校のOBとしてのコメントと言っても,端から見ると皮肉のようなものしか書けないですね.
素晴らしい賛辞のコメントなどを見ていると,幸せな人生を送ってきたのだなと思うばかり.そのほうが良いのですが,当然.

いやしかし,学校機関で教えるべきは,教科そのものじゃないのだなと,今は,よくわかる.
なぜ成績が伸びないかって,それは「勉強法」を知らないからなので.
教科の中身は,いくら知っても,無意味です.
勉強法がわかれば,学校で授業を受ける必要はない.これは事実ですね.

ただ,学生が個人的に「勉強法の開発」を試みているか,それとも,ただ「成績が上がれば良い」と考えているか,姿勢が異なるので難しいのかもしれない.

大学も実際は同様かと思いますが,授業は結局のところ「このように段階的に理解を進めて大局観を養いましょう」というものになる.
「このハードルをクリアできれば,あとはご自由に」という世界なのです.

幸いにして,遠藤が,分け隔てがないと感じるようになったのは,研究室配属からです.
東大中村研時代も,しんどいと言えばしんどかったわけですが,後腐れのある言動として覚えているものがなかったりする.
あれは面白かったなとか,これは名言(迷言?)だなとか,また言ってるなとか,ためになったなとか,だいたいポジティヴな印象として残っています.

博士号をとってから今に至るまで,むしろ思うところが多々ありましたが.
中村研を外から見ると,本当に,色々と,研究業界の状況がわかります…

ということで,頑張りたいものです.

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