天橋立_智慧の松

2013/10/23

なぜか強者は「あなたにはわからない,弱者の気持ちが」と言われるものです.これが特に一方通行なので辟易していますが,逆も同様とは思わないでしょうか.

こういうことだとは思います.特に4ページ目.

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131023-00021734-toyo-bus_all&pos=1

僕は研究業界では,まだ弱者側ですが,強弱の対決は,だいたい同じ結論に至ることは見ても明かです.

強者と弱者の対決では,どうしても弱者側が擁護されるという現実はあります.おそらく,ごく一部の強者に対して,弱者という側が大多数で一般的だからかとは思いますが…

majorityである弱者が,minorityである強者を差別している,とも言えないでしょうか.

その結果,責任ばかり追及される強者への希望は減ります.出世願望が低下している理由の1つのようです.

逆に,仮に周囲が特異な環境であったとき,周囲の環境のせいで自分は力を発揮できないんだ,なんて言い訳は通用しない.

「自分はある環境において弱者」と認識したら,どうにか強者になるべく画策しなければならない.

環境が悪いから,環境を変えろ,という主張を実行することは悪くないでしょう.しかし,環境などは数年か数十年後にようやく変わるので,自分は何の恩恵も受けずに終わるものです.

明日から自分が頭角を顕すために,その特異な環境で他者に打ち勝つよう,自分が変わらなければならない.

変わらないなら,退場させられるだけです.とか言うと,学生は「厳しそうだし敬遠したい」となりそうですが…確実に,数年後に,実感することになるでしょう.

いずれ経験して苦悩するのだから,今から準備したほうが良いに決まっています.

準備ができていないと,対応できず,周囲を巻き込んだ不利益になります.自分の配偶者,子供,家族にまで影響を及ぼす可能性を考えると,今のうちに真剣に考えることをお勧めしたいものです.

それが「金銭」といったものに反映されないと,想像力が働かないので痛みがわからないのかもしれません.大半が金銭に反映されるので,心配しなくても大丈夫です.

基本的に,研究業界に進もうという人間は,特に,個人的な理由で言い訳がしづらいという事実は知っているかと思います.知らなければ大変な不都合です.

「なんとなく気分が乗らないから休もう」というのは,個人的には良いでしょう.ただ,自分が損をしているだけです.仮に病状が重く休む場合,周囲に得はありませんが自分が損することで,相対的に周囲が優位になります.

この手の「少しだけ」は,積み重なることで数年後には,とんでもない痛みとして自分にのしかかります.自業自得です.

それでも確かに「それは不可抗力だなぁ」ということはよくあり,致命的でなければ,誰もが受け入れてくれるものです.受け入れてくれたところで,損することには変わりないのですが,人間関係は崩れません.

それに,そこまで限界ギリギリで生きていける人間はいません.余白があるから力を発揮できるし,その余白分だけ予想以上の成果につながるのです.

しかし,そもそも受け入れてもらえないことは山ほどある.

自分自身が学生の頃,それほど達観していたわけではありませんが,僕自身が高い能力を持てば(強者に成り上がれば)何事も問題なく解決する,という極論で,なんとか強くなっていこうとは考えていました.

そうでもしないと,研究はおろか,社会でも生き延びることはできないだろうと自覚があったからです.

振り返ってみると,今では英語で講演しようと別になんとも思いませんが,小学生の頃など挙手して発言もできず,聴衆の前でトークすることも不可能で,周囲に埋没するような状況でした.

それが悪いことだ,ということではありません.ただ,それでは社会的地位は築き難いとは思います.

そう考えて勉強を嫌々ながら始めたのが中学生の頃.自分に自信が持てないというのは,1つの問題でした.

今でも,それほど自信があるわけではありません.ただ,僕個人を認めていただける機会が増えたため,それほど体裁を気にせず生きていけるようになった,というだけです.

自分でも良かったなと思うのは,中学生あたりで現実問題から逃れられないことを自覚したことです.

学生の頃は,それほど厳しく扱われることはありません.ですので勘違いが入ってしまうかもしれません.

しょせん子供(たぶん大学生も幼稚だと自覚したほうが良い)なので,刹那的な快楽に生きているのが大半です.

これが社会に出た途端に激変する.待遇が大きく変わるのです.周囲は攻撃的ですが,それが本当の姿というわけです.

その攻撃から保護されているのが,学生の身分.その転換期を,大学生であれば研究室で過ごすことになります.

数年後に訪れるであろう,知的暴力での殴り合いに備える準備期間です.

誰か能力の等しい2人が会社で競争していたとする.ウサギとカメではありませんが,その1人が,体調不良で休んだとします.その結果,休まなかったほうは,どんどん先に進んでしまい,休んだほうは置き去りにされてしまったとしましょう.

「自分は体調不良だったので仕方ない」と思うかもしれませんが,それを周囲は考慮してくれません.「君は体調不良だったから,それを考慮して,もう一度,同じスタートラインから仕切り直し」「損失は周囲が補填するから大丈夫」なんてことにはならず,場合によっては排除されるかもしれない.

結局,理由など,どうでも良いものです.理由にこだわるのは,大抵において,ミスをした側です.

強者ほど周囲から放置されます.何もお膳立てがありません.勝手になんとかするだろ,と思われます.

なら,弱者のほうが気楽で良いかなとは思うでしょう.

そうなると,この世界の環境に対する不平不満は通じなくなる.

環境を変えるのは,結局のところ,強者でしかないのです.要望を出しても,決定権は,強者側にある.

そう考えると,どうにか強者に回れるよう,頑張りたいなぁとか個人的には思う次第です.

ちなみに,U研は,世の中の有機化学研究室のなかでも極めて甘いので,所属の学生は自分で覚悟をしておかねばならないでしょう.このような状況には理由がありますが…

過去に厳しい環境を目の当たりにすると,外に出ると逆に拍子抜けします.楽すぎて.それが余白なのだと思います.

結局,自分を自分で追い込むのですけどね.

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