2. 博士

この記事一年前くらいには書き終えていたぞ…内容確認しきれず放置していて,今も確認しきれていないけど,とりあえずオープンに.

博士のイメージはいかがでしょうか.遠藤は自分自身が修士課程の学生の頃,博士課程の学生を見ていて感じたことは「(研究については)自分の延長線上にいるとは思えない」ということでした.
つまり「遠藤の周囲には有能な博士課程の学生が多かった」ということです.人間的にどうこう,という話は別です.そういうことを議論する意味はありませんね.こういった論点のすり替えをしてくるケースは多々あります.

博士課程進学のメリットデメリットは,誰にでも明らかですが…
メリット:
1. 研究能力を養う.
2. 研究者への第一歩.

デメリット:
1. 社会に出るのが遅くなる.
2. 重たい責任を負う可能性が高い.

これだけ見ると,博士は修士の延長に過ぎない,と思う人も少なくないでしょう.
確かに「これで博士?」という人も,大量にいます.

デメリットを考えた,自分は博士には向いていないと感じた,周囲を説得できなかった,よって修士卒で就職する,
こういうケースは,いずれも「研究に関するリスクはとらなかった」となります.
責任を負いたくないと思うかもしれませんが,研究関連に就職するなら必ず責任を負うことにはなるのです,いずれ.
自分自身が成長すれば,相応に,責任に立ち向かうことができます.

最近の博士課程は,学費免除,生活費もある程度は稼げる,ということで,基本的な生活を送ることは難しくはなくなりつつあります.
お金がない,というのは,あまり理由にならなくなってきました.

博士は,単に,修士に毛が生えただけでは?と考えている人もいるでしょう.
本当の博士は,修士とは,ぜんぜん別物です.だから「なんだこれ」という博士に怒りを覚える次第ですが…
個人的な感覚では,本当の意味で研究をするなら,修士では話にならないのです.

さて「1. 修士」にて,修士課程は「研究者の中学生相当」で博士課程は「研究者の高校生〜大学生相当」と書きました.
博士課程の学生といっても,色々な人がいます.
ある意味で「予備校的な」発想で研究に取り組んでいるケースと,教科書から解脱したいという姿勢で研究に取り組んでいるケース.

しかし,研究者として,どちらが良いか悪いか,というよりも,ここで今後の研究者人生が定義づけられる,ともいえます.
社会に出た後,博士課程に戻るなら,また状況は変わります.

博士課程で身につけたいことは何でしょう.ただ実験して結果が出ればOKなら楽かもしれません…

まずは,博士=研究するための免許,ということを認識しておきましょう.

1. 仮説を立てまくる!

実験しているだけの博士は社会的に無意味です.無価値です.そんな博士不要です.
何が求められるかというと単純です.
情報発信です.

勉強をする,実験をする,このあたりを重視している人は,後々に苦しむことになります.
この2つは,誰でもできます.
勉強することで知識を身につけたり,何らかの方法論などを身につけたりするかもしれません.しかし,ただ吸収するだけなら,他の誰かでも良いでしょう.
特殊テクニックを用いて実験をする,ということが重要になることもありますが,基本的に,その実験テクニックは,ほとんどの人が身につけることが可能です.
よほどの職人芸であれば話は別ですが,そこまでの職人芸が求められる実験では困ることが多いです.使い勝手が悪いので.

ある特定の博士だけがふるえる手腕として「仮説の提示」があります.
他の誰も気づいていない仮説を世に示し,他人が動く.ここに本当の価値があります.

博士とは,情報を吐き続ける生き物と思えば良いです.
受け身では成立しません.攻撃的である必要があります.

実際に博士となり,研究活動に従事するためにも,博士課程では「仮説を大量に作る」ことからスタートです.
その仮説を他人に開示する必要はありません.
自分のなかで仮説を大量に打ち立て,世に出ている仮説と戦わせて,取捨選択をします.

重要な点は「博士課程で取り組んでいる研究テーマ」とは無関係な仮説を立てることです.

2. 他者を育てる!

難しいことです.
遠藤は,博士課程時に,育成については注力していませんでした.これがポスドクに行かねばと感じた1つの理由です.
博士課程の頃は,実験して何か出しても誰かが下についてしまうので自分のネタがなくなる,というパターンに苦悩していたので,他人を育てるというよりは,むしろ1人にして欲しい,という感覚でした.
不思議と周囲からは,それが普通だという感覚で見られており,なぜか何らかの実験結果を出しても出しても,手元から持っていかれて「それで、遠藤の成果はなんなの」とか聞かれる始末でした.
そのため,博士になれるのか,ずっと怯えていたという…

研究者というと孤独というイメージがあるかもしれませんが,実際は精神的に孤立しているものの,周囲にはチームが出来上がり,だいたい仲間がいると思ったほうが良いでしょう.
実験を必要とする研究では,1人で対応することができません.
ただ,たとえば大学教員などは,基本的に1人で判断し行動することが多いし,群れることを嫌うので,1人だから何だと?という意識のはず.
そういった1人1人が立った存在のため,互いに調整しないとうまくいかない,ということも理解しています.

基本的に大学教員であれば,必ず,教員を中心として,研究グループが生まれます.
教員でなくても,博士を中心としたチームが生まれます.

30代も半ばを過ぎると,いずれ実感することになりますが,徐々に自分の時間が細切れにされていきます.
何を言っているかというと「時間がない」わけではないのです.問題は「細々と雑用が入るので,まとまった時間は取れない」ということです.
こうなると,実験など,しっかりと計画を立てて取り組まねばならない作業から,離れざるを得なくなります.

現時点で38歳の遠藤の実験台は一応あるのですが,ずいぶん前に仕込んだ反応が放置されています.
なかなか難しいですね…もう少し現職場に慣れたら,実験できるのかも…?

ということで,自分で実験などができない = 他者の力を借りる = 他者を育てたほうが早い = 育成力を身につけねばならない.

3. 他者を疑う!

他人の育成とは,なんとも方向性の違う内容ですが…
研究者を目指す以上,本来は,他者が報告した論文を読んで感化されたりしてはいけないのです.
感銘を受けることと,感化されることは,まったく別物です.

研究の潮流というものが確実に存在します.この潮流で波乗りに成功すると,別に本人の資質云々は関係なく,高い評価を受けやすいです.
高い評価を受けている研究者は波乗り成功者であることも少なくはなく,研究の本質を突いてきた数少ない研究者に全体が支えられているのが実態でしょう.
その潮流が50年ほど続いてくれれば,自分の研究者人生は満たされる可能性はあります.それが本懐であるなら,言うことは何もありません.

このような潮流に乗ることで,成果が出やすいのは事実です.一方で,競合者も多い.競合者に競り負けることもあります.
すなわち,波乗りでも,自分のオリジナリティを追究しても,実は,勝率は同様であるかもしれない.

「潮流」とは「もうわかっていること」です実際は.
ある問題提起が為されて潮流となった時点で,それは研究の視点では「終わったこと」です.とか遠藤は勝手に解釈しています.

博士は「情報を吐き続ける生き物」と書きましたが,その最大の功績は「問題提起」なのです.
この問題提起は一瞬のことです.問題提起後に,長期に渡り数多くの人間が関与して技術などが開発されていきます.
そのため,問題提起した研究者は,置き去りにされることも多いでしょう.評価されずに終わるケースもあるはずです.
実際に評価されるのは,問題提起に対する技術的なブレイクスルーを果たした人,ということが多い.

「絵に描いた餅」では駄目なのは間違いありません.ですので問題提起に触発されてブレイクスルーを果たした人が評価されることに異論はなくても,そういうブレイクスルーを果たした幹にしがみつく無数の研究者が問題なのかと思います.

個人的には,既にブレイクスルー済みと感じたら,その研究の潮流が道半ばでも,自分の時間を費やそうとは考えません.
ブレイクスルー済みとは,だいたい「方法論が発見された」ということですね.ということで,遠藤は,最近の流行の「C-H結合活性化」を軸とした研究は絶対にしません.
遷移金属の直接的な挿入,ラジカル,等の既に明らかの手法以外で,何か達成できそうだと考えた場合は,主軸として研究に取り組むかも?

一方で,方法論は既知だが道半ばであることを自分への好機ととらえる人も多くいるはず.

個人の好みの問題でしょう結局は.

4. 日本語能力を磨く!

英語能力は?とか言うかもしれませんが,そんなのどうでも良いというか「英語が話せないからできません」とかいう発想は,もはや博士云々以前の話なので,もしそんなこと考えているなら「当たってくだければ良い」と認識を改めたほうが良いでしょう.
実際,遠藤も,当たってくだけたことは多々あります.もうしょうがないですよ.日本人なんだから.
調子が良いというか,ほんと意欲的な精神状態なら,意外と英語はホイホイと話せますし,相手が何を言っているかも,理解できます.でも,やる気がないと,英会話も同様,話せないし聞けない.なんなのでしょうねぇ…我ながら不思議です.

話したいことがあれば,適当に英語を捻り出すし,聞きたいことがあれば,身を乗り出すような感じで相手からの表現を奪いに行く.
やる気ないと,もう駄目ですね,会話が成立しそうな予感がまったくない.

海外の英語圏で生活を数年以上するなら,しっかりと会話能力があったほうが良いけど,たまに学会で英語を使うとか,外国人講演者と交流するとか,そういう程度なら,むしろ日本語を大切にしたほうが良い,と言っておきます.

日本語での「申請書」は重要です.
研究する上では,言語の違いなんて,特に関係ない.しかし,研究費などを得るための申請書,教員公募などへの応募の際の申請書,節目節目で重要になるのは明らかに日本語なのです.

他にも重要な点はあるかと思います.
しかし,博士の基礎として譲れない部分は以上.

晴れて博士となったら,一気に跳んで助教でもありですが,ポスドクについて書いてみます…
遠藤が感じたポスドクの光と闇.次回はいつ更新かなぁ.

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