孤独のススメ

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もう7月ではないですか.ウィンブルドンが夜中にやっているので,つい見てしまう.

早く合成しなければ…そして溶けてくれ…しかし結晶性があるとも限らない.ジレンマというやつですね.

論文は通りそうな気配なので次に行くとして.

 

さて,研究者になろうという卵が,孤独には耐えられない,なんてことはないでしょう.孤独であることを特権と思うのが研究者,だけど,それだけでは研究できません.

散々に誰かに支えられての人生,ここでどうにか個人の力で何らかの貢献を果たしたいものです.

以前も,こんなこと書いた気がします.

 

昨今では,友人の数が社会的評価指標と言わんばかりの流れだったりしますが,皆さんは,どれくらい友人がいるでしょうか.遠藤は友人と言える友人は本当に少ないし,特別に友人を作ろうと積極的に動いたことは一切ありません.必要なら作りますが,それは打算というものでしょうか.

どの程度の親密さをもって友人と定義するかも関係しますが,顔見知りは不思議と増えました.その理由は後に述べます.知り合いが増えれば増えるほど年賀状の数が半端なくなり出費が…という悩みも.

化学業界においても,友人を作れ,横つながりが重要,という風潮にあり,単純に否定する要素は特にないので,部分的には同意するところです.

何故,こんなことを書き始めているかというと,数年ほど前から一部の方とは話をしているのですが「最近は集まって何か催すことを美徳としすぎる」という共通する疑問があるからです.それが近年,ますます激化しており,なぜこうも「友人讃歌」が流行しているのかと危機感もあります.

そこには「閉塞感のある研究業界で,アイデアが寄り集まれば良いことあるのでは」という,実に投げっ放し感の強い期待があるのかと思います.しかし,この考え方は危険です.

集まっている方々を遠巻きから見ている視線もあるということで,単純な一枚岩というわけではないでしょう.集まれば革新的発想につながると信じてはいけません.単に「便利」だから集まるという考え方が良いと思います.

 

研究業界も殻に閉じこもっている場合ではない,ということで,似たようなノリで有人作りを推奨するケースもあります.確かに殻に閉じこもっている場合ではないのですが,特に有機化学は殻に閉じこもる以前に,中身がそもそも内向きなのです.結局,有機栽培畑のなかで揉み合っている状態で,それから畑の外に出ることは珍しい.特に反応開発は外に向かうことが難しい.

遠藤は畑から飛び出したいとモジモジしているわけですが,そう簡単にはいきません.

 

友人を作れ,という提言に,ただ感化されている学生は,アカデミックキャリアを積もうと言うなら慎重になったほうが良いです.逆に,友人なんてどうでも良い,と強がっている人も,再考の余地ありますが.

 

最近の研究は,個人で対処不可能なことが増えてきているため,それゆえに何らかの形での横つながりは,いずれ重要になるとは思います.ただ,それが「友人」と言うものであるべきかというと,話はまったく違います.とりあえず「どこかで見たことある」くらいでも十分に話ができます.実際,遠藤の場合は,やはりなんとなく「どこかでお会いしませんでしたっけ」で話が始まることもある.実は,一度も会ったことがなくても「どこかでお会いしたことがある」という気はしますが.

問題となりつつあるのは,研究者間のつながりによって何かが生まれるのでは,と期待していることだと個人的には思っています.要するに,自分一人ではどうにもらなかったけど相乗効果で新規性が生まれてイノベーション,という方向性です.

これは明確に言うと依存心の現れで,研究者としては考え方の根底がおかしい.研究で馴れ合いしている場合ではありません.何か情報を得るために集まろうというなら,一人でのたうち回りながらネタを考えていた方が,よほど生産的です.白い目を向けられますけど実際.どこからか情報を得ようと思うほど時間がないというのも事実です.

研究者は,勉強は一人で恒久的にするとして,基本的にはアイデアを吐き出す一方の生き物です. 誰かに教えてもらおう,誰かの発想を取り込みたい,なんていう姿勢なら,修士で良いのです.寄り集まって出るネタなら,誰かがやってくれるでしょう,きっと.

 

知り合いが増えるコツは特にないかもしれません.とにかく顔見知りになろうと積極的に話しかける,ということを奨励する方もいらっしゃいますが,遠藤は逆に「それは後回し.良い研究やれば勝手に周囲に人が増える」ということを言われていました.そこまで人は増えていませんが,特に何か人脈作りをしたことはありません.飲み会くらいです.

最重要課題は「論文」です.その論文が掲載された雑誌のインパクトが高い必要性はありません.どちらかというと「この発想はどこから?」と思わせることで「あの仕事をした○○」という印象が残ります.

オリジナリティとインパクトは,特に相関はなく,インパクトファクターが低い雑誌にも,なんとも味わい深い論文があります.そういうのを見て「誰がやった仕事だろう」と興味を持つことで,このネット社会では容易に著者の情報をある程度は得ることができます.

 

課題解決型の研究標的であれば,集まれば良いアイデアも出るかもしれませんが,そもそも課題を作る段階で集まったところで良いことはありません.個人の発想が個人の研究となるからです.

自分の研究が確かに立ち上がってから効果を発揮するのが横つながりでしょう.オリジナリティが立ち上がっていないのに寄り集まって会合する理由はない,オリジナリティが出れば自分の論文を見た人と自然とつながりが生まれる,という個人的な考え方ですが,いやそうではない,という方もいらっしゃることでしょう…研究の足場が固まる前に人脈ができてれいば,いざというときに恩恵はあるだろう,とか.

いずれにせよ,やはり独自のアイデアは孤独なときに生まれるものです.インスパイアされて生まれたアイデアの独自性は低い.そういう経験が何度もあります.

 

アカデミック業界は,何歳になっても,直接に関わりのなかった知り合いが増えやすい.民間企業では,その企業内部での知り合いは増えても外部の人間との接触はそれほど多くはないかもしれない.年齢を重ねるほど,この傾向が強く出るはずです.ただ昇進により,社外との関係が強くなる可能性はありそうですね.それで「友人」というような存在が得られるかは,個人によるのでしょうけど.

その面から考えて,民間企業に就職する人ほど,友人を増やすよう積極的に動かねばならないのかな,とも思います.気づけば毎日が同じ繰り返し,ということもあるでしょう.

 

「友人」とかいう形は,余計な人間関係を増やすことになり,余計な時間を割くことにもつながり,必ずしも友人が多ければ良いことが起きるわけではない,と思われます…

大半のトラブルは人間関係から始まりますし.

 

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