1. 修士

久しぶりに追記してみました.まだ書き足りない気もするけど,途中で切り上げます.また追記するかもしれません.

 

ここでは修士課程について,特に(遠藤が)何をすべきだったかを解説します.仮に「学士卒で就職しよう」と考えている学生は,この項を参考にしてもらえれば良いでしょう.就職先で,率先して取り組まねばならないことは,修士課程に通ずるものがあるはずです.単に,心構え,といったところです.

けっこう普通のことが書かれているはずです.しかし,その普通が難しい.その普通こそが重要であったりする.

 

大学での経験は,役に立たないと言う人は,教員にさえいます.しかし,たとえば,ろくに報告書も書けない人が会社新人に多いそうです.遠藤が見ている限り,実際に修士の学生の報告書作成能力は,かなり低い.報告書の書方などを含め,大学で身につけるべきことは多々あり,それらは社会に出ても役立つものです.

 

研究業界への一歩を踏み込んだ方は基本的に,遠藤の感覚に対して,どのような攻略法を思いつくか,その個人的な感覚が重要です.

成功体験者の手法は,多くの場合,人生経験そのものや,綱渡り,本当に運次第,であることが多いため,真似はできません.真似をしようと思わないほうが良いでしょう.同様の試みをして,何も起きなかったどころか,失敗をして表沙汰になっていないケースが大半だと考えて,遠藤は取り組んできました.成功体験を参考にすることは,要するに「効率の良い方法を真似したい」という手抜き願望の現れです.それは先々に厄介な問題を引き起こす危険性がある,ということを認識しているなら,まだ対策を講じることもできるでしょう.

あくまで,自分で何を感じたか,それが重要です.自分の考えが持てないなら創意工夫も不可能 = とにかく研究者には不向き,ということになります.既に自立に近い人間が流されるがままでは困るでしょう.

修士課程や博士課程の頃に遠藤が参考にしていた先輩,といった人は,特にいませんでした.それどころではなかった,という実情もありました.近しい存在,たとえば先輩か,もしくは助教を基準として取り組むほうが,わかりやすいかもしれません.遠回りせずに済むことも多々ありそうです.あくまでも自力で考えた上で行動に移すことを勧めます.

だいたい失敗したり恥をかいたりしますが,それが良いのです.

 

以下すべてであるわけありませんし,無駄話というわけでもない.これくらい取り組んで,あとは個性で色々と試みてみましょう.

 

1. 「研究の中学生」へ!

大学生なんて幼稚園児と同じです」という,どこかで聞いたことのある名言ですが,これは大げさではありません.今現在,振り返ると,自分自身がいかに幼稚であったかわかります.今でも稚拙な自分の発想に苛まれていますが,それ以上に学生の頃は精神的な意味合いを除外しても「研究という業界では幼稚園児」といった感覚でしょう.

研究を時系列で考えると「大学生 = 幼稚園」「卒業研究 = 小学生」「修士課程 = 中学生」「博士課程 = 高校生〜大学生」「博士後の正社員 = 社会人」といったところでしょうか.やはり大学生は研究においても幼稚園児に等しい,と言うと反発を買うかもしれません.

遠藤はポスドクまで経験しましたが,やはり博士課程までに確信が得られなかったことを手に入れたかった,ということからすると,研究者としては留年気味という印象です.もっと高い意識を持っている,という人もいるかとは思いますが…

 

いずれにせよ,研究における幼稚園児から社会人までを,6〜7年ほどで駆け上がらねばなりません.

自分自身は幼稚園児でも,研究室には,社会人まで揃っています.そのため,遠藤は,修士課程を生きて出られないかも…と,本気で思っていました.この覚悟のようなものは,今から考えると,悪くはなかったかと思います.要するに生物的に恐怖を覚えるレベルで必死でした.

卒業研究までは幼稚園児 = 研究に対する自分の意志が,ほぼない.色々と夢物語を考えますが,当然,庇護下にある妄想なので,現実離れしています(ただ,この頃の妄想は,後に多大な影響を及ぼします).卒業研究に着手して,ようやく研究の基礎がわかる.わかりますが,なんとなく「やらされている」という感覚です.この時点では,それほど人生の岐路に立っていません.ただし,どの領域に進んだか,これは人生に大きな影響を与えますので,卒業研究に着手する前に,よく考えるべきでしょう.

大学を卒業し,修士に進学することで「研究業界の中学生」となるわけですが…ここで中学生時代の重要性を認識せねばなりません振り返ってみると,現実の中学生での振る舞いが,その後の人生に大きく影響している,ということに気づくはずです.

 

2. 自立心を養う!

可能な範囲で,修士課程では,誰かに何かを聞いて実験するのはやめましょう.たとえば,ある反応の条件を決めたいとき,わざわざ教員に聞く必要はありません.常識の範囲内で考えれば良い.室温で進行すると思われる反応を300℃に熱して試そうなんて考えないはずです.

ただし,あまり自信が持てないときは相談する必要はあります.また,触れたことのない試薬などについては,必ず教員に聞くべきです.

 

「こうだと考えているけど問題ないか」という質問に対して教員はアドバイスして,学生側は自分の考え方を磨き上げていくもの.つまり「どうすればいいかよくわからないから教えてほしい」は,学生自身にとっても教員にとっても良いことになりません.

「実験の進め方は自分で考えてくれ,相談には乗るから」と教員に言われて「放置されている,アカハラだ」と感じるようなら修士に上がるべきではないでしょう.

ここで自力で考える力を養わなければ,社会では単なる「指示待ち技術者」となるだけです.そういう人材は修士である必要もないでしょう.

しかし,指示待ち修士の数は少なくないのでは?と個人的には感じます.

 

結局,実験を進める手法,速度などは,修士課程では誰の責任でもなく,学生自身のさじ加減で決まります.成果が出るか出ないか,実験の量で決まる場面も少なくありません.

一応,遠藤の学生時代の基準は「年間1000実験」です.あくまでも目安.一気に10個の反応管に仕込んだり,同時に精製したり,忙しいことは確かです.

 

「少し実験をして最大の成果を上げる」ことが奨励されていますけど,それは当たり前です.そうなら良いなと誰もが思います.

しかし,そんな天才ばかりなら苦労しません.

自分が普通だと思うなら,徹底的に実験を処理し,その結果から考察をして仮説を立てる,この繰り返しを増やすほかないのです.

ところが「実験回数を増やしても技術ばかり身に付いて勉強にはならない」と学生は考えがちです.実験数が多いほど,考察と仮説立案の回数が増えます.それが研究者としての力に直結するのです.

「実験するより勉強したほうが後の自分のためになる」と考える学生は少なくないかもしれない.しかし,実験と勉強は,比較の意味がない.研究者を目指すなら「実験による考察と仮説立案の経験」がなければ話になりません.

 

年間1000実験は,特に優れているという証拠ではありません.ただし,研究者として脱皮するきっかけにはなる可能性があります.

 

3. 勉強法を確立する!

現実の高校生に上がろうかどうか,といった段階で,いずれにせよ受験に向けた勉強に取り組むことになります.ということで,勉強法を確立せねばなりません.

現実の高校受験に対して,塾通いなどをする人がいるかと思います.僕も中学では中堅の塾に通っていました.しかし,高校では塾に通うつもりはなく,実際に通うことはありませんでした.塾等に通う理由は多々あるとは思うのですが,個人的に最重要と位置づけていたのが「勉強法」です.この勉強法さえ確立していれば,高校の先生から得るものは方向性だけです.なぜなら,自分で勝手に勉強するからです.

受験を勝ち抜くノウハウなど,いずれ役に立たなくなるので,実にどうでも良いのです.そのため,勉強法さえ,ある程度,確立していれば,特に進学塾に通う理由もないはずです.

ちなみに遠藤は,古文漢文現代文は特に,勉強法がさっぱりわからず,よって,ほぼ放棄しており東大受験など目指す気にはなれませんでした.

 

しかし遠藤は実際,大学に入学後,勉強について,かなり苦労しました.そもそも,化学(の勉強)が嫌いだった,というのが最大の問題点であったことに違いありませんが…

ということで,修士課程にて築き上げた勉強法が,そのまま自分自身の行き先に反映されます.どのようなアプローチが最も自分に適しているかは,自分にしかわかりません.わかりませんが「これこそベストのパターン」と思い込み,空回りを続けるケースもあるでしょう.しかし,おそらく絶対に裏切らないアプローチがあります

 

「研究の中学時代」と称する修士課程において,勉強法を確立しているか否かは,人生を左右する重要な要素となります.人生は長いから博士課程にさしかかっても良いのでは?と思うかもしれません.可能な限り,修士1年で勉強法を確立したほうが良いです.博士課程では,修士課程で学ぶべきであったことを先延ばしして,改めて学び時間を潰している場合ではありません.博士課程で得るべきものは,もはや「勉強」といったものではなかった,と遠藤は感じています.このように先に認識しておくことを勧めますが,遠藤は修士課程当時,博士課程がどういうものか,よくわかっていませんでした.わかっていない上,誰かが適当な意義を教えてくれることもなかったような気がします.

 

どのような勉強法を身につけるかは,個人に依存します.ただ,自分は普通以下かなと自覚しているなら危機感は重要です.普通以下と自覚できず普通以上に優れていると考えているなら,先々に問題が出てきます.

本当に大丈夫なのかと常に不安という心境が効果的でしょう.忙しすぎて暇などない,という程度に,実験 + 勉強しまくることが重要です.自信にあふれている場合は,その勘を信じて突き進んでも良いかもしれませんが…このプライドは,あっさりへし折られるので,あまり好ましくはないのかな,と思います.

世の中,ショックを受けるレベルで有能な研究者が近場に多くいます.それを見て弱気になることも多々あります.

 

なお,研究で芽を出したいなら,丸覚えに意味はないことを,ここで述べておきます.この理由は,後にわかることでしょう.「インスパイア型」と「ひらめき型」に研究者は大別されます.

 

何か特別に思うところがない人は,新旧問わずに論文を大量に読み続けましょう.大量に,というところがポイントです.基本的に研究室で実験していないときは,どうしても手が離せない場合(ライフイベント系とか,大学の講義関連とか)か,論文を読んでいるときです.

どれだけ読んでも十分,ということはありません.

しかし,後にわかることですが,知識だけ豊富だという場合は博士課程卒業後に苦労します.それは「2. 博士」にて少々書きます.

 

4. 継続する意思を育む!

仮に勉強したとします.でも,残念ながら,2〜3年では,大きな飛躍を実感できません.これは実際の中学〜高校での学力向上と同様とも感じます.遠藤は中学から勉強を始めましたが,高校は中堅の進学校が限界でした.小学生の頃から日常的に勉強していれば,おそらく,もう少し上のレベルの高校に達していたと思います.

やはり研究素人が2〜3年で,高いレベルに自分を押し上げることは困難なのです.

現実的に,勉強の成果を実感するまで4〜5年ほどかかります.ここまで継続する根性がなければ,中途半端に終わります.また,博士課程では屈強な精神力が求められます.些細なことで,継続の意思が途切れるようなら,博士課程に進学しないほうが身のためです.

2年程度でマンネリ化して,無意識のうちに,積極的な継続の意思を失っている危険性はある,と考えましょう.遠藤自身,今でも怖じ気づくことがあります.学生の時点では怖じ気づいたところで「自分は苦手だから」で逃げに走ります.しかし,たとえば,就職後に逃げ腰 = 周囲に多大な迷惑をかける = キャリアアップ困難,という単純な式が成立します.

 

短期で何かを成し遂げようという意思はあっても,10年単位の長期的な視野で仕事する人は,けっこう少ないと思われます.これは起業に似ており,5年以内に80%が消滅し,10年後には95%以上が倒産,最終的に成功しているのは1%以下.実際は,かなり本腰,長期計画で取り組めば,生存率は高いそうです.

自覚はないものですが,学生では本腰を入れていない可能性が高いです.

安易な気持ちで起業したケースも,この割合に含まれているようです.この「安易な気持ち」に含まれているかもしれない.自分はそんなことはない,と言い張る学生に限って自分を見失っているものです.遠藤自身も,勘違いしていて恥ずかしかったということは少なくありません.実際は「なんで研究に足を突っ込んだのか謎」「流されるままに来てしまった」というケースは,どの大学でも多い気がします.

 

5年,もしくは10年くらいを目安に勉強を進めると良い気がします.

 

5. 創意工夫の土壌を培う!

あまり重要度が高くない,もしくは,博士課程でやれば良い項目,と考えている人がいるかもしれません.それでは遅いのです.いや,修士課程で取り組まずに,博士課程でも取り組まない,というよりは遥かに良いのですが.

次の「2. 博士」で書く内容に含まれていますが,本当に「中学時代の勢い」は必須です.勢い余って定年まで突っ走ることができればベストですが,どこかで一度は行き詰まるでしょう.つまり「博士課程に後回ししても良いかな〜」という,その考え方が問題なのです.調子に乗って妙なことを始めるくらいが良いです.

創意工夫に悩み始めると,最初は「巨大な穴」に気づきます.それは誰でも見てわかるようなもので,むしろ見落としていた自分が謎なほどに明瞭な問題点です.そういう見え見えの罠に,ただ誰かに転がされている状態の頃は堂々とはまっていたのです.独自研究に取り組み始めると同様に「これが独自性だ!」と思ったものは,ほとんどが「大穴」で誰でも気づいています.

堂々と遠慮なく大きな穴が空いている場所には,当然?研究者が殺到します.しかし「2. 博士」にて詳細に述べますが,誰でも見える大穴に用はありません.誰にでも見える穴に着手する = 凡庸な人 = 研究者ではない(もしくは,代替可能な人材),ということになります.何のために研究という生業を選んだのか,考えなければなりません.

しかし,偶然,その大穴から成功者が生まれます.そのため,悪いことばかりでもないのですが,そこまで単純な話は稀でしょう.

 

それが「大穴」だと認識できるまでに,それなりの時間と経験を要します.修士課程から,その感性を磨いておくと後で役立ちます.

 

いかに工夫して,目的を達成するか.極めて重要な行動になるでしょう.実験にも同じことが適用できます.とにかく合成が難しい化合物を,どうやって合成するか.どのようにして,手抜きをして得るか.その創意工夫ができないなら,修士としても実力は怪しいままとなります.

何よりも,創意工夫の下地は博士課程には必須です.社会でも絶対に必要です.これができる若い世代の層は,なかなか少ない = 出し抜くチャンスなのです.

 

6. 横道に踏み込む!

さて,ここまでは基本的に「自分の手の届く場所」について述べてきました.しかし,社会人となり,抜き出ようとしたときに役立つことは「誰でも知っていそうなこと」ではありません.

自分には関係がなさそうな「雑学」に近い発想を,他領域から拾ってくることが効いてきます.

たとえば遠藤の場合,ポスドクで結果的に検討したことは,当初のテーマではなく,博士課程の頃に考えていたことを切り崩したものが発端となっています.助教で検討したことは,博士課程で漠然と思い描いていたことです.さきがけで提案しているものは,修士課程の頃に,他領域の論文を読んで妄想していたものです.次に検討しようとしていることは,大学生の頃の妄想に基づいています.

正直に言うと,研究に本格的に着手してからの妄想は,知識や経験に縛られて矮小化してきています.

 

ということで,積極的に足を踏み外すと,思わぬことが起きる.知識や経験により,その行為は何にもならないように思えます.さらに実際に失敗の危険性は高いです.

学生の頃,最初は,ちょっと痛い視線にさらされたり,怒られたり,もっと勉強しろ,と言われます.もし確たる意識を持って取り組んだ結果なら,周囲からのバイアスが何かかかったとき,新しい芽が伸びつつある,という証拠です.そこで逃げ出さずに,しぶとく継続することで,数年後に手応えが出てくる,かもしれない.

成果として結実しないかもしれませんが,何もしないよりは遥かに良い.何もしなければ経験さえ積めません.

 

まとめ

卒業研究から取り組み始めた努力が少し花開くのは4〜5年先です.だから博士にならないと,なかなか厳しい.民間企業にて,大学と同様の勉強法はできません.

これは「順当に成長している自分」を実感するのではなく「1つの物事に多面的アプローチが可能になる」という感覚です.博士課程が終わる頃に,ようやく「研究に対する違和感」がつかめるのです.そのため,成長していると余計に悩みが増えて,自分が成長しているとはまったく思えません.むしろ,次々に対処し難い物事に直面することになり,本当に自分は大丈夫か心配になるはずです.

修士で学歴を終える方が到達することは難しいため,本気の研究に人生を投じていくなら,博士課程に進学せざるを得ません.この「違和感」までの道程が長い.それは,与えられた情報を多面的に見ることで,すべてのアプローチが成立するかの思考実験の結果です.思考実験により「これはおかしい」「これは可能性あり」といった独自の視点が持てるなら,独自の研究に発展するかもしれません.

以上からわかるように,修士課程は極めて重要な位置づけにあります.博士課程から実力向上を図ると2〜3年ほど出遅れます.となると,博士課程で身につけるべきことが,身に付かないまま終わります.社会人にて博士課程で身につけるべきものに取り組む時間は,あまりありません.出遅れると自分を放置して周囲は伸びています.

そして,既にブログにて述べていますが「30歳にはリストラ対象」のおそれあり.そのとき「まだ勉強したいと思っていたのに」という意思は認められることもありません.

 

特に1つの大学にて「卒業研究,修士課程,博士課程」と上がると,他大学のことがわからないため,自分の力を過信します.いかに恐ろしい業界かを早々に知ることは,悪いことではありません.

言えることは「研究室のなかで相対的に優れた自分」を実感しているとすれば,先はありません.そのような価値観における,自分より優れた人間は,社会に出ると大量に存在します

 

以上,特に「研究」に対する姿勢など,直接的な物事は書きませんでした.それは「当然身に付けているもの」ですので,あえて言わなければならない特殊な素養ではありません.あえて言うなら,目の前にある研究に,いかに情熱を注げるか.注げないなら話にならないということで,「2. 博士」に続きます.

ここまで細々と,遠藤が修士課程の頃に考えていたわけではありません.しかし,以上の点に確たる結論が出ないまま苦悩する修士課程を遠藤は過ごし,博士課程へと突入していきます.

 

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