生きていくために必要か否か
こんなの誰が判定可能なのか.
その重要性を知らないだけであったらどうするのか?
教科として,古文はいらない,漢文はいらない,といったことは,よく言われる.
果たしてそうだろうか?
とにかく,自分の狭い視野,たかが人間の,さらに一個人の主観で考えたところで,結論は出ないですね.
直接的には影響していないが間接的には多大な影響を及ぼす,というものもある.
単純に,試薬の話だと…
2つのボトルの中に,致死性の高い試薬と,自分の命を奪うこと確実な病か感染症の特効薬が,それぞれ入っているとして.
それを,分析機器類を用いずに見分けて,数分以内に飲まねば死んでしまう時.
どうしますか?
少量ずつ摂取して確認とか,そういうのは抜きにしましょう.
あらゆる知識を動員して,見分ける努力をするでしょう.自殺願望あるなら別ですが…
わりと単純な知識だけど生きていく上で必要ではないものは,いくらでもある.
例えば,ある特定の官能基特有の匂いとか.
フッ素化合物,わりと,良い匂いすることあったりします.
しかも,毒性が高い化合物で.
ちょっと特徴的な匂いなのです.
同意は得られないかもしれない…
しかしこんな知識,生きていく上で必要か?と言われると,普通は使いどころがない.
いつどこで自分の先行きを決める選択肢に、その知識を活用することになるか,まったくわからない.
だから,絶対に必要というわけではない,なんてことを考える時点で,そんなにリスクのない人生であったのか?と不思議に思うことになる.
ほんの数秒から数分で決定的な決断をせねばならない時は,まったく無関係では?というような情報まで頭をよぎります…
人間は追い詰められた経験が少ないと,必要か不必要かで,線引きしたがります.
ある瞬間,全て知っていたら違った結果だったかもしれない,と思うことがあるのです.
それだけでも,答えになりますね.
知りようがなければ諦めるとしても,土壌があるなら拒否する理由なし.
しかし、そんなに嫌か?…数学の公式というか,考え方を学ぶことは.
これは高校数学が得意な方であれば理解しているかと思いますが,例えば,関数の設問で,関数をまったく使用しないで解くことがある.
数学が関係ない日常生活でも,そういうことはある.
「考え方」が重要であって,異なるアプローチを仕掛ける起点となる.
だから古文でも漢文でも,その「考え方」を活用できる,そういうものです.